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その6 『間違い』

 ワールドカップが終わり話題にもならなくなった。 しかし度々の試合で日本が負けたという。 捻じ曲がったわたしの臍は、相手の人達が喜んでいるのだから良いじゃないと思ってしまう。

 勝ち負けは、目に見えるしはっきりしている。だから多くのファンがいて、現地にまで 応援に行くのだろう。 暴論を覚悟で遭えて言うが、勝ちにこだわるのは見えるものしか信じない結果である。 確かに、応援する者達が勝ち、喜んでいる様は嬉しいものだ。なんだか自分もその仲間入 りをしたような気分になっている。 でも、それがどこか満たされない思いのはけ口であったのならどうだろう。 しかも、そのことにすら気づいていないとしたなら、ましてやである。

 現代はそうした鬱屈した思いが広まっているようだ。 自らの存在に自信が無く、回りに認められてもいないように決めつけて、その存在を誇示 する行動が、ニュースを通してなぜか多く見受けられる。

 人は関係の世界に生きている。 だから、認められないことは苦痛なのである。より多くの人々に知ってもらいたいのが本 音なのだ。ひょっとしたら、このような文章を書き、広めている姿もそうなのかもしれな い。そのことを、自ら認め、負の伝達ではなく、加の伝播を、愛を基本として始めた時、 社会が変わり始めるのではないかと感じ続けている。

 弓道では、本音と出会う機会が『会』のなかにある。 「当てたい」本音と「離れ」の迷い。そして、結果。 まず、「当てたい」のならば、道具に精通すること。そして、自らとの対話が欠かせない。 弓道家は一人。対戦する相手も、団体もない。勝ち負けは、大会にのみ存在するが、その 中にあっても闘うとするならば己のみ。自分と徹底的に付き合うところから始まる。 そして、自分を好きになった時から進歩が始まるのだ。 つまり、今の自分を認められると、例え20 点の存在から始まるとしても素の姿が美しく なる。出発点となるのだ。 大抵は、鎧を着た80 点ぐらいの自分を想定しているから、回りに認められないと腹を立 て、鬱屈して行くのである。

 勝っても負けても、良し。当っても外れても、よし。 的外れな人生にならぬように気をつけましょう。

その5 『日本人の勝負弱さ』

 トリノオリンピックが始まった。 当事者たる選手も、応援者も互いに期待を持って。  ただ残念なのは、報道各社の思いはメダルにあるようで、しかもその色に最大の関心が集中しているようで寂しい。 そして、数日間が過ぎた今、それを取得したものは皆無なので、どうやら熱は冷めてしまったようだ。 紙面の取扱も極端に減ってしまった。

 さて、開幕前の選手達のコメントは、これまでにない勇ましいものだった。 日本人が従来持っていた、はにかみや謙遜といった控えめな影はなく、 むしろ大きめの期待とこれまでの努力に対する自信に溢れていたのだ。

 しかし、先の結果である。 どうしてなのかと考えた。

 昔、フローレンス・ジョイナーという陸上短距離の選手がいて、 彼女の心の持ち様と、日本人の選手のそれが話題になったことがあった。 彼女のそれは、今金メダルを獲ると、ある企業の広告に出られて新しいスポンサーになってくれるという 前向きの期待であったのに対して、日本選手のそれは、失敗したら国に帰れないというものだった。  心の向きが正反対なのである。かたや期待で胸を膨らませ、かたや萎縮して、持っているものまでも出せずに 終わってしまったという。  またしても、それが現れてしまったのか。

 実はそうでないように思う。 日本人と外国人と二元的に物事を捉えてしまうと、この例話のようになってしまうのだが、 外国人にもいろいろなタイプがいて、日本人と同じような結果を受け取った人は多い。 金メダルは一人。その時その場で最高を出すことができたものが手に入れるのである。

 大切なのは、自分自身が世界のトップとして世界の中心と考えた人は、見事に裏切られ、 謙虚に勝利の女神にゆだねたものが手に入れるのである。

 昔、イスラム世界に旅行する際、入国審査書が厳格であったときがあった。 右上の欄に「あなたの信じるものは何ですか?」というのがあって、「自分」や「無心論者」と書くと入国させてもらえなかった。 つまり、自分が神と信じている人は、自分の考えや行動が基準となっているので、危なくて一緒には居れないというのだ。

 スポーツでも同じで、人生にも通じることだが、自分がトップとなるとその狭い考えがすべてとなってしまうので、 それ以外が思いつかない。 思いついても簡単に排除してしまうのである。  一方、自分以外がトップとすると、あなたの考えはどうと、心に余裕らしきものが芽生えるのだ。 そして、分かりました、委ねますと言ったときに身体の緊張は緩んで行くのである。 もちろん、自信を持つための努力は不可欠である。

 弓道でも試合や審査で緊張するのは、自分が物差しとなってはいないか考えるよい機会となり得ます。 是非2006年はそのようなことも心の端っこに入れておいてください。 上達の鍵となるでしょう。

 オリンピックも終盤、荒川さんが金メダルを獲った。 そして、コメントがすばらしい。 「楽しむことだけ考えて滑りました。」と。 そして、ほかの人々も言った。「挑戦できて嬉しかった。」と。 嗚呼、何と素敵な人達ではないか。

 今年も雪が消え始めました。精進して参りましょう。 [2006.3]


その4『会の真理』

 この世に多くの成功者がおりますが、成功の秘訣はと問われると、成功するまで諦めなかったと答えるのが恒です。 成功の定義は各人がお持ちだろうと思いますから、敢えてここでは取り上げません。

 さて、長い時間をかけてようやく『会』に入りました。 何を考えておられますか? たぶん、「中り」のことではないかと思うのです。 ここで「離す」と20点。

 最初は各部の点検をしてほしい。 先手の、妻手の、左右の伸び、上下の伸びあいはどうか、 そして、何より感覚として、「いつまでも、どこまでも長く持ちつづけられる」本物の『会』には入れたかどうか。 意外とそのような状態にはなれないものなのですよ。 100本以上の行射で1本あれば良いほう。それを求めて稽古をするのです。 増やす努力を稽古というのです。 従って、点検するにはある程度の時間が必要で、『会』の長さとなるのです。

 次の段階があります。 完璧な『会』に入ると次に考えるのが、『離れ』です。 ここには「迷い」の世界があります。 何時離そうか、中るかどうか、うまく離れるか、人の目などが気になるのです。

 一切を振り切らねばなりません。 古の先人たちは「無我の境地」と自然に離れることを待ちました。 ここでも『会』の時間を必要としています。

 わたしたちはこの境地には達してはおりませんので、どうすれば良いのでしょうか。 『会』に入って考えることは、「一、点検」 「二、自分と出会う」こと。 つまり、「中り」にとらえられている20点の自分と、「迷い」惑わされている自分と、 そして、発展途上にあってまだまだの自分を認識することが重要なのです。  未熟な自分だからこそ稽古を必要とし、稽古によって伸びようとしている自分を褒めてあげることが肝心なのです。

 自分と出会うことは、神と出会うことです。なぜなら私たちは神の作品なのですから。 そして、成功するまで諦めない、これが真理です。 [2006.3]


その3 『心の置き処が人生を決める』

 皆さん、明けましておめでとうございます。2006年が飛躍の年となりますようお祈りさせて頂きます。  さて、衣食足りて礼節を知るという言葉があります。 しかし残念ながら、歴史上それを行った人は少ないのです。衣食は足りても礼節に満ちた方は限られている。 特に権力を持ってしまった方々には、皆無と言わざるを得ない。衣食足りて飽食したのが実態であった。 何故でしょうか。彼らのステータスがそれであったからだ。

衣食住は基本的な生活の原点です。みんなが求めて止まないもの。言葉を変えて豊かさ を求める源といえるのかもしれません。 わたしもまたあなたもそれを目指している。 しかし、条件付の豊かさでは、比較の上に成り立っているので、豊かに成れば成るほど もっと欲しいという罠にはまってしまうことに気づかないでいる。

 昔、初めて飛行機に乗ったときのことだ。 スマートで洗練されたイメージとは違って、間近で見るそれは巨大であった。 これが宙に浮くとは信じられなかった。 飛び立つ時、脚を無意味に踏ん張り、身震いしたことを思い出す。 同時に、もしエンジンが止まったらと、関与できないことに不安を覚えて苦笑した。 実は「豊かさ」とは、本来飛び立った飛行機が安全に着地するために、予備のエンジンを持つことを 意味していたのである。 人は時代が進み、世代が変わることによってこのことを忘れてしまったのだ。 そして、金品に心を奪われ、ブランドでめかしこみ、グルメと称して胴体ばかり着飾った。 これらはすべて、エンジンに余計な負担をかけるものばかりなのである。

 私たちは今、顧みて立返ろう。 生きていて死んでいる人生に別れを告げて、生きている人となり生かされている人となって 他社に仕えて生かす人となろう。 過去を宝として、未来に希望を見出し、今を生きよう。 感謝の日々と、希望の光の中で、輝きを他者に与える「愛」を培おう。

 主力エンジンは「愛」、第二エンジンは「感謝」、第参エンジンは「希望」。 私たちは既に飛び立った。  世の塩気として、光となって働こう。 何も持たないようでいて、すべてのものを持っている。それがわたしたちなのだから。


その2 『離れ』

実は今、離れに悩みを抱えています。 それは、こうした文章を書く為に、心の内側をより鮮明にしたいと願い、 さまざまな試みに挑戦しているからです。

『会』は本当の自分と出会う機会であることは度々申し上げてきました。 事実そうです。 加えて、本物と出会う絶好の機会でもあるように思うのです。 それは、『会』における心の動きを追うことで、自己を知り、 到達できる境地のように思います。 例えて言えば『悟り』のようなものでしょうか。

物理的には弓の圧力に耐え得る時間はそう長くはありません。 体力より以上の強さを選択しているからです。 呼吸の長さも肺活量によって決まっています。 そして、忘れてならないのが誘惑の大きさです。 「今、離すと中るよ!」というものです。

前回『民に親しむ』という表現を用いましたが、古来、 稽古がそれらを駆逐する唯一の手段であるように考えられてきたのですが、 今回の挑戦で、ある疑問が浮かんできました。 ここに落とし穴があるように感じ始めたのです。 もちろん稽古をないがしろにしてよいというのではありません。 目的目標を明確にして励むことが『道』につながることも確かなことだからです。 しかしこれも、真面目に捉えすぎると堅くなって弊害が起こりますから、 程ほどにと考えています。

さて、僕はこの『道』を探求する為の早道として宗教を勉強してきました。 過去儒教を7年間、仏教を5年間、成功動機付け研究所(SMI)を6年間、 猪突猛進しました。 そして今はキリストを生涯かけて研究し続けていこうとしています。 先の3つのキーワードは『努力』でしょうか。 高みに上るためには絶えず頑張れと叱咤激励の毎日でした。 結果くたびれたというのが本当でした。 努力という条件を達したときにのみ良しとされていることに気づいたからです。 しかし、あえて申し上げておきますが、乱暴に言えば何でもよいのです。 人間の選択ですから。 相互の関係とあえて申し上げておきましょう。

いずれにしても、『会』における心の動きを分析することは 自分と出会えるチャンスでした。 僕も数々の試みを通して、『道』を求め続けることの大切さは理解できるようになりました。 弓の圧力に耐え、心の誘惑に打ち勝ち、ふと透明な世界に触れ、 自分の本音に見えることができたように思います。

ひとりびとりそれは違ったものでしょうが、そこには紛れもなく宝物があります。 なぜなら、本音の自分と出会うことは神と出会うことだからです。 私たちは神の作品として、ありのままでよいと地上に送られたのですから。

さて、脇道に逸れてしまいましたから戻りたいと思います。 『会』における『道』とは何でしょうか。 多くの先達はこここで逃げてしまっていました。 所謂、技術的に修正を加えていったのです。 先手は、妻手は、丹田に、十文字にと。 僕は、感じます。それらは間違いではないが、わずかに『道』から逸れていると。 本音と建前との合致を知行合一こそがそこに通じるものであると。

あえて冷徹に科学的に言えば、矢がまっすぐに的を狙い、 体の働きに間違いがなければ、的中します。 本当のことです。 しかし僕たちは機械ではありません。いつも同じというわけにはいかないのです。 わずか1mmの引き手の違いが、先手の張りのずれが、 微妙に感覚的に体が捉えるではありませんか。 その1mmの誤差を修正して余りあるのが、精神世界ではないかと感じ始めています。 僕の場合、試験や試合の緊張があると不思議と的中するのです。 一切の雑念を吹き飛ばしてくれるからでしょうか。 中ることも中らぬことも頓着しない状態が、 緊張によってもたらされるのではないかと思います。

人知の一切を越えた境地に近いもの、そして、これこそが本物の世界のように 感じたのです。

すなわち人は、勝ち負けや、大小、早遅等にこだわって生きてきました。 しかし、一期一会の如く、昨日の自分は昨日に死に、 今居る自分は新しいものとして生きるならば、 そういった世の価値観に拘ることなく、こびることなく、 自由となれるのではないでしょうか。

そこに真理がある。 今の射は、今のもの。 昨日の為でも、明日の為でもない、活きている実体の射であることを、 感謝をもって行射することを。

これに尽きると。

僕はいつまで経っても発展途上にあります。欠けのある人間ですから。 弓道はそんな身に、かけがえのないものを増し加えてくれています。 是非膝をかがめて受け取ってみてください。すばらしい贈り物が手渡されますよ。 きっと。

ではまた、その3に続きます。


その1 『真善美』

弓道は「技術」と「道」が一体となって完成されるものですが、これまでは主に「弓術」に重きを置いてまいりました。 しかし、皆さんの技術が進むにつれて、より完成系に近づきたいと、折に触れて不定期にこのような短文を発行していこうと考えています。 但し、私自身、完成には程遠いものですから、切磋琢磨しあいたいと考えますし、自由に議論を重ねて、よりよい求道世界を創りたいと願っています。 是非、ご自分の考えも披瀝していただければと存じます。

さて、弓道の真髄は『真、善、美』にあると言われています。 教本ではその説明は甚だ単純ですが難しく書かれてあり、簡単に理解することはできません。 そこで最初に、この三文字に挑んでみようと思います。

『真』とは何でしょうか。 四書五経に「大学」という本があります。 中国の書物は、大抵始めにその言わんとしていることが書かれるのが恒なのですが、この本の要諦こうなのです。 **大学の道は明徳を明らかにするに有り、至善に止まるに有り、民に親しむに有り。** これを「真、善、美」に重ね合わせるとより親しみやすくなるように思えるのです。 すると、真とは明徳を明らかにすることとなります。

一般に真という文字は、心理 真実 真価といったように本物や正しいことに使われます。 弓道での本物、正しさとは何を意味しているのでしょうか。 技術的な分野では、比較的理解しやすいと感じるのですが、精神や心の本物を考えると何やら漠然としてしまい判らないというのが本当のようです。 確かに二元的に捉えれば、人間的な本物とは悪を為すことなく歩むこと、とも言えるのですが、それではまるで答えにはなっていません。

そこで先の明徳を取り出してみるのです。 明徳-----中間に返り点を付ければ、徳を明らかにするとなります。 そして、『徳』とは、人格のありようを現し、更に、修養によって体得できる品性を指すのであり、善や正義を貫く人格的な能力を示す言葉なのです。 明徳とは、これらを明らかにする過程を示しているのではないでしょうか。

加えて蛇足ですが、この答えを導き出すためには条件があります。 それは、現在の自分を認め、感謝し、愛することです。 例えここに、何もできない自分や、否定してしまわなければならないような自分がいたとしても、そのことも受け入れてしまえる度量が、特に負の部分についても感謝できるような大きさが必要であると感じています。 なぜならば、心根を暗いところにおいてしまうと、水面まで上昇するのに疲れてしまい、その上の階段を上る気力が削がれてしまうからです。 あくまで全体の心は明るさの中にあってさらにその上を目指すことが肝心なのです。

技術的にも悪い部分を直すことは大事なのですが、それを補って余りある方法を考えることも一理あるのではないでしょうか。 もっとも、それに最初から走っては本来の目的がかすんでしまうことにもなりますが。

ともかく弓道は級位の人も、高段者も同じ射法八節を行います。 ここに違いを示そうとするならば品格を高めるしかなく、その徳を、その心を磨く以外に道はないのです。

次に『善』についてです。 真の概説のなかで、心の持ちよ様にふれましたからここでは「止まる」ことの説明をしてみようと思います。 「止」は鳥の足跡からできた象形文字です。 止まるの形は一本足で立っている姿ですが、この姿勢では長時間このままでは居れません。 「止まる」とは「とどまる」と読んだほうが自然です。 つまりとどまるとは歩みなのです。 止ると止るを合わせて上下に書くと「歩」となると同様です。 『真の道』とを歩み続ける、それが「善」です。

また、『美』とは何でしょうか。 教本のように、真なるもの、善なるものは美しい、だけでよいのでしょうか。 もちろん、それもあるでしょう。 しかし、民に親しむと並行すると別なものが見えてくるように思えてなりません。 小さな子供が好きなもの、例えば電車だったり、自動車だったり、その形を見ただけで何年の製造か、型式はどうとか細かなことまで知っているということ。 それほどに大好きになること。

また、道具の手入れや道場への配慮、惹いては周辺の草木にまで及ぶほどの気配り、同労の者たちへの暖かい思いやり、それが美なるものの本質のように思えてなりません。 そう、嫌々ながらするのではなく、より積極的に自ら動く能力なのではないでしょうか。 皆さんはもう既になさっておられますよね。

そして、これらのことを思うにつれて、前述もしましたが、まず自分を深く愛すること。 何を言い始めても、これこそが大前提であることに気づかされるのです。 隣人を愛するには、まず自己を愛し大切にすること、これが廻りを生かしていくことに繋がっているのです。

どうぞ、日頃の喧騒から身を引いて、そんなことも考えてみてください。 『道』はあなたを呼んでいます。